山中陣馬と大川村 ~時代の転換期に土佐の山間を生きる~

2017.06.30

高知県の最北部、愛媛県との県境に位置する大川村。標高1,000メートルを越える急峻な山々に囲まれ、村の中央には「四国の水がめ」と呼ばれる早明浦ダムが広がっています。かつては鉱山や林業で栄えたものの、産業の衰退によって人口が激減。約400人の人口は、離島を除いて日本最少です。

 

幕末から明治初期に活躍した大川村の若者・山中陣馬

そんな村の興廃を、静かに見守ってきた一つの墓があります。その墓の主は、山中陣馬。幕末から明治初期にかけて、大川村の中心者として活躍した人物です。「土佐膏(あぶら)取り一揆」のリーダーになり、凄絶な最期を遂げました。大川村中切に今もなお、その墓が残っています。

山中陣馬は江戸時代の終わりの天保5(1834)年に、大川村の郷士の家に生まれました。地域の中では裕福な家であったそうです。本山町の武道館で学んだ陣馬は学問にも武芸にも秀で、豪放で思いやりのある正義心の強い人物でした。

陣馬が生きた時代は、日本社会の転換期でした。彼が20代の頃、時代が大きく揺れ動きます。250年余り続いた江戸幕府が、土佐(今の高知県)や薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)などの雄藩の連合によって倒されました。その時に活躍したのが、坂本龍馬や中岡慎太郎、後藤象二郎などの高知の英雄たちです。江戸時代から明治時代へと変わり、薩長や土佐出身者を中心としたメンバーが新政権を発足します。明治新政府はアメリカやヨーロッパに負けない強い国づくりを目指し、社会制度改革を推進。増税や徴兵制度など、一般庶民の暮らしにも大きな影響を与えました。

新時代の到来は人々に不安や不満を生みます。新しい税金の制度は庶民の生活を圧迫し、江戸時代の身分制下では行われなかった一般国民の徴兵も不平を生みました。農林業に人手の必要な中山間地域では、若い男性の流出は大きな痛手です。国民皆兵を定めた「徴兵告諭」に兵隊となって国に報じることを「血税」と表現していたことにより、「血税反対」を掲げた一揆の嵐が全国で吹き荒れました。改革の先進地だった土佐でも山間部を中心に反政府一揆が頻発。大川村を中心とした「土佐膏取り一揆」も同じ系統です。「外国人に膏を取られる」という流言が広まったことも、騒動の悪化の一因でした。山間部には情報が伝わりにくく、誤報も事実として受け取る人が少なくなかったのです。このようなデマや政府への不満に動揺した人々が徒党を組み、池川(現高知県仁淀川町)を皮切りに「膏取り一揆」が拡大していきました。

 

一揆のリーダーそして命を賭して民衆を救う

明治5(1872)年1月、大川村が属する本川郷でも一揆が勃発。当時、地域の有力なリーダーの一人として評価の高かった山中陣馬にも、反乱への参加を求める声が集まりました。豪快な性格でありながら、暴力や争いごとを好まない陣馬はためらいます。しかし無二の親友であった和田米蔵の願いによって、苦悩の末に参加を決めたのでした。

陣馬は約1000人に膨れ上がった膏取り一揆のリーダーに担ぎ上げられました。陣馬は話し合いによる平和的解決を模索し、人々には次のように語ったと伝えられています。「焼き討ちや暴力は、一切禁止とする」―。しかし、政府への不満がたまった群集たちに陣馬の想いが通じることはなく、次第に暴徒と化していきました。このような状況に、陣馬は孤立と苦悩を深めていきます。役人との話合いによる平和的解決も順調に進まず、メンバー内の対立も発生しました。

民衆が決起してから約2週間後の明治5(1872)年、16日、陣馬は突然陣所から姿を消し、大川村中切の山中で切腹している姿が発見されました。享年39歳。陣馬の死は、人々に大きな衝撃を与えました。彼の死からほどなくして、膏取り一揆は鎮圧。陣馬は遺書を残しておらず、自殺した経緯や理由は明らかではありません。ただ、歴史的な事実として膏取り一揆の死者は陣馬1人です。自らの命を賭して民衆を救った人物として、語り継がれています。

陣馬の死後、土佐では自由民権運動が盛んになりました。暴力ではなく言論をもって、自由で平等な社会を目指して多くの人が参加。日本初の政党内閣発足に尽力した板垣退助、「自由は土佐の山間より」の名言で有名な植木枝盛などが活躍しました。存命であれば、山中陣馬も自由民権運動家の1人として数えられていたかも知れません。

 

大川村の今、そして、未来へ

そして、今。人口400人となった大川村は、村の政治のあり方で揺れています。議員不足で村議会が廃止され、住民が議案を話し合う町村総会が設置されるのではないか―。そのような報道がされ、日本全体の注目を集めました。今後必要になるのは、より良い地域づくりのための村を挙げた議論です。その際、先人が歩んできた歴史を振り返ることも大切になるでしょう。

大川村の抱える人口減少や高齢化といった課題は、将来の日本社会の姿であるとも言われます。この小さな山村の取り組みが、日本の希望の光ともなり得るのです。社会が混迷し未来が見通せない今、新しい時代が大川村から始まります!

この記事を書いた人

まーぼー
まーぼー
群馬県出身。2014年から大川村に移住。ニックネームは「まーぼー」。集落支援員として地元給食のサポートや地域支援に携わる。田畑を借りて農業にも挑戦。農家として自立し、地域の伝統や文化をつなぐことが目標。趣味は読書と渓流釣り。自身でもブログ「大川村の下剋上」を書く。築100年超の古民家で、妻と両親と祖母の5人暮らし。四国の山奥で充実した婿入り生活を送る。



instagram







facebook